こんにちは、イチロウです。
タスキを必死につなぐ日本人の大好きな駅伝の時期が来ました。駅伝の練習方法でインターバルは有名ですが、このトレーニングはキツいんですよね…。私は中学のころ、陸上の練習でインターバルが大嫌いでした…(-_-;)
そのインターバルがまだ知られていなかった時代、日本ではじめて組織的に取り入れたのは広島県の世羅高だったんですよ。
↑ ↑ ↑
にわかに信じがたいですが興味ありありです♫
今回の記事は以下の3つです。
- インターバルを組織的にはじめたのは高校生?
- 人口17,000人の広島県世羅町はなぜ駅伝が強い?
- 広島県には有名ランナー靴を供養する寺がある?
自分が興味をもち調べた記事ですが、もしよかったらご覧ください。
世界の主流トレーニング
インターバルトレーニングとは、休息をとることなく、強弱をつけた運動を交互におこないながら走り続けるトレーニング法です。心肺機能を高めつつ、スピード維持能力が習得できる今や世界の主流トレーニングなんです。
このハードなトレーニングを世に知らしめたのは、1952年ヘルシンキ五輪で5000㍍、10000㍍、マラソンで金メダルを獲得したエミール・ザトペックさんなんです。
これらの種目を五輪で3冠するなんて、ありえないです!
はっきりいって神です!
いや、、、「人間機関車」なんです!
大記録を打ち立てたザトペックさんは、顔をしかめながら走るスタイルから「人間機関車」と言われ、当時の流行語となっていたそうです。
人間機関車よりも進んでいた
ここで興味をそそる話をしているのが、世羅高校陸上部OBの住職神田敬洲さんです。
神田さん曰く、人間機関車が世に知れる前より、世羅高校はインターバルを組織的に取り入れた練習をしていたそうです。
その成果を証明するように、1950年第1回、51年第2回の全国高校駅伝で連続優勝しているんですね。
誰が世羅高校にもちこんだ?
1936年ベルリン五輪で5000㍍、10000㍍で4位に入賞した村社講平さんを中心に、1928年アムステルダム五輪の三段跳びでアジア人初の金メダリストになった広島県出身の織田幹雄さん、1932年ロサンゼルス五輪の三段跳び金メダリスト南部忠平さんがインターバルを世羅に持ち込みます。
当時、世羅高校の陸上部を率いていたのは内海冨貴郎さんでした。過去に織田さん、南部さんの控え選手として、その名が世に知られることがなかった人です。
五輪後に、戦争により軍に徴用された内海さんですが、帰還したあとは世羅高校陸上部初代監督に就きます。村社さん、織田さん、南部さんとの親交は続いており、インターバルトトレーニングを日本で初めて組織的に取り入れたそうです。
日本人に感銘をうける
インターバルを世に知らしめたザトペックが、少年時代に影響を受けた選手が日本の村社さんなんです。彼はベルリン五輪での村社さんの走りを目の当たりにして、世界の頂点を目指したのは有名な話です。
こんなエピソードもあります。
1981年4月、多摩ロードレースに出場するために来日したザトペックが「どうしても村社講平と一緒に走りたい。彼は私を陸上競技の道に進ませてくれた、憧れの人なんだ」と希望したことから、当時75歳であった村社が「そこまで言うのなら」と一緒に走ることを快諾、5kmをザトペックと共に走った。
レースの後、ザトペックは「今日は我が人生で一番幸福な日だ。私にとってのヒーローであるムラコソと一緒に走ることが出来たのだから」と語り、その感激を語っている。
出典元:wikipedia
インターバルの創始者と言われているザトペックさんですが、その原点は村社さんが直伝にインターバル指導を行ったのかもしれないですね。
今回の記事の要点
- インターバルを組織的にはじめたのは高校生
- 人口17,000人の広島県世羅町はなぜ駅伝が強い
- 広島県には有名ランナーの靴を供養する寺がある
今回の記事の要点である1,2は、五輪金メダリストを含むメンバーと、監督内海さんが協力して世羅高校にインターバルを持ち込みました。
まだ世間で認知されていないときに、高校生に組織的な練習を取入れ第1回、2回の全国高校駅伝を連破するような強いチームに育てたんですね。
では最後に要点3の
「広島県には有名ランナーの靴を供養する寺がある?」です。
あるんですね~。
僕は知りませんでしたが、世羅町に靴供養を行うことで知られる修善院があります。住職は本文中に出てくる現役ランナーの神田敬洲さんです。高橋尚子さんや有森裕子さんをはじめ有名ランナーの靴が並べてあるそうですよ。
話のネタになりますし、広島県に行ったら立ち寄りたい名所ですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。